ルーマニア情報(ブカレスト概観)
その首都であるブカレストには、全人口約人口約1,994万人(2014年調べ)の内、約1割である188万人(2012年調べ)が集まっており、ルーマニアの政治経済文化の中心地となっています。共産主義時代に建てられた画一的なアパート群が建ち並ぶ中、20世紀初頭には「バルカンの小パリ」とも言われた美しい街並みの面影も見出すこともできます。
- 正式国名:ルーマニア(ROMANIA)
- 面積:237,500Km2
- 人口:約1,994万人(2014年)
- 民族:ルーマニア人89.4%、ハンガリー人7.1%、ロマ人2.1%、ドイツ人 0.2% 、その他セルビア人、ユダヤ人等
- 宗教:ギリシャ正教の流れを汲むルーマニア正教
- 言語:ルーマニア語。その他トランシルヴァニア地方の少数民族はハンガリー語、ドイツ語等
- 政体:共和制
(1) 地理・気候
冬の平均気温は-3度程度ですが、時には-10度を下回ることもあり、年によっては相当の積雪もあります。大通りはともかく裏路地は除雪がされないので、路面が凍結し、歩くのは大変危険です。足元には十分お気を付けください。
ブカレストの年間平均気温
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
平均気温 | -3.6 | -2.8 | +6.8 | +14.6 | +18.6 | +22.3 | +25.0 | +24.5 | +16.5 | +11.6 | +8.9 | +3.3 |
(2) 時差
(3) 歴史
ブカレストの発祥は14世紀に遡るとされていますが、その名が歴史上初めて登場したのは、1459年ヴラド・ツェペシュ公(ドラキュラのモデルといわれる)の署名した文書です。当時ブカレスト周辺地帯はワラキア公国と称されていましたが、15世紀初頭から約400年間はオスマン・トルコの間接統治下に置かれました。
1642年に冬の離宮が建てられて以来、ブカレストは徐々に発展し、1659年にワラキアの首府となりました。1859年にワラキア公国が隣国のモルドヴァ公国と統一したのに伴い、近代法政が整備され、ブカレストも近代都市として体裁、内実共に整えられていきました。
1877年、ドイツのホーエンツォレルン家より迎えられたカロル公がロシアと共にオスマン・トルコと戦って勝利を収めたことにより、ルーマニアは公式にオスマン・トルコの保護領でなくなりました。1881年ルーマニアは公国から王国への格上げを宣言し、ブカレストはルーマニア王国の首府となりました。
第二次世界大戦では当初ファシズム政権のもと日独伊同盟に参加しましたが、戦争末期には同政府はクーデターで倒れ、新政府は直ちに連合軍側について対独宣戦を布告しました。
戦後は共産党が政権を獲得し、1965年ゲオルゲ・ゲオルギュウ・デジの死とともに書記長となったチャウシェスクが党内を完全に掌握、1974年には大統領制を敷き次第に独裁色、個人崇拝的傾向を強め、25年の長きに亘りその政権を維持し続けました。晩年チャウシェスクはメガロマニアとも言われる、運河、新宮殿等、巨大建設計画を次々に実行し、華やかだったと言われる王政時代の町の面影の多くが破壊されてしまいました。
しかし、オイル・ショックに伴う極端な飢餓輸出政策と国内締め付け政策に国民の不満が限界に達し、1989年12月16日のティミショアラで発生した反体制デモを契機に同22日、ブカレスト市内革命広場において大規模な反体制デモが展開され、ついにチャウシェスク政権を打倒し、共産党一党独裁に終止符を打ちました。
その後、国営企業民営化の遅延や農地私有化に伴う混乱等が生じましたが、西側および近隣諸国の資本が入り始めると同時に消費物資も多く出回るようになり、経済は徐々に発展し、2007年1月にはEUに加盟しました。